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宝永,安政地震の白鳥山崩落跡 訪問記(富士宮市)

目の前に見えているのが富士川です(この角度だと水流がほとんど見えませんが,,,)。

奥に見えているのが,富士宮市(旧芝川町)の白鳥山(567m)です。

山梨県の南部町まで連なっています。

 

アップでみると,以前ご紹介した大谷崩(静岡市梅ヶ島)を小さくしたような。

この規模だと山体崩壊ではなく,山塊崩落跡というのが正しいようです。

大谷崩と同じく,宝永地震(1707年,M8.4~9.3)の際に崩落しました。

その後の安政東海地震(1854年,M8.4~8.6)でも崩落しました。

 

ここが崩落跡の一部です。

写真からわかるようにいまでも崩落が続いており,

 

砂防工事が続けられています。

推定によれば,宝永地震で全体の7割ほど,安政東海地震で全体の3割ほどの土砂が崩落したようです。

 

この山塊崩落では,土砂が急峻な白鳥山を下り,富士川を塞ぎ,対岸の長貫集落まで埋め尽くしました。

宝永地震では,3日間富士川を堰き止め,安政東海地震では1日堰き止めたと言われています。

この土砂流入により,長貫集落の村人は残らず生き埋めになったとの話もあり,集落には慰霊碑が設けられています。

 

白鳥山の東側の道路を山梨県南部町方面まで車で進めると,かなり急峻な山肌が続き,山全体に,大規模ながけ崩れ防止の対策がとられています。

 

道路沿いの至るところに土砂崩れの跡がみられます。

 

富士川の対岸(東側)からみる白鳥山です。

向こう岸(写真奥側)は,富士宮市内房(うつぶさ)の橋上(はしかみ)集落です。

中央にみえる鉄塔を覚えておいてください。

 

橋上集落のなかには,八幡様が祭られていますが,この集落も,宝永地震,安政東海地震での白鳥山崩落で複数の人が犠牲になりました。

白鳥山と富士川に挟まれた非常に小さな集落ですが,少なくとも,宝永地震の崩落の際に8名,安政東海地震の崩落の際に6名が亡くなっています。

 

その犠牲者を慰霊するためにかつて集落が設けたのがこの供養碑です。

設置は,安政2年(1855年)です。

地元の方は,地震墓と呼んでいます。

 

何気なく横を車で通れば気づかず通り過ぎてしまうような場所にポツンとあります。

集落のなかの位置関係でいうと,集落南側の端に建てられています。←ここが実はポイントです

 

表側に刻まれた内容から,嘉永7年,つまり安政東海地震の崩落により集落の方が犠牲になったことがわかります。

 

こちらは南側側面。

 

供養碑の前の道の反対側には,さきほど対岸からみた鉄塔があります。

供養碑を訪れ手を合わせたい方は,橋上集落のなかのこの鉄塔を目印にされるとよいと思います。

 

供養碑から南側の白鳥山をみた風景です。

あの山が大崩落したわけです。

資料によれば,この橋上集落の方は,白鳥山の崩落自体と,加えて,崩落により富士川が堰き止められ天然ダムが生じたことの両方で犠牲になったようです。

集落の富士川側には,大きな堤防が設置されていました。

 

さきほどの写真からも対岸の堤防の様子がわかると思います。

 

さて,この供養碑(地震墓)ですが,最初,集落を訪問した際に場所がわからなかったため,集落で畑の手入れをされていたご夫婦に,「このあたりに地震で犠牲になった方を慰霊する石碑があると聞いて・・・」と尋ねました。

しかし,わかりません,とのお答えでした。ひょっとすると,昔から住んでいる母親なら知っているかもしれないとのことで,実際,そのお母さまにお聞きしたところ,すぐにわかり場所を教えてもらいました。「地震墓」とおっしゃっていました。

 

先人がこうした石碑を残す場合,多くは,犠牲者を供養するためだけでなく,後世の人間に,ここでこのような災害があったことを伝えることをも目的にします。

さらに,この地震墓の場合には,資料によれば,それだけでなく,この石碑より白鳥山側には家を建てるな,とのメッセージも込められているとのことです。

そして,先人がそのメッセージを残そうとしていたことは,この対岸の石碑の場所(鉄塔が目印)と,崩落場所の位置関係をみると,すぐに間違いがないことだとわかります。

集落のもっとも南の端に,その石碑は設置されていました。

 

この地図の薄い赤で囲まれたところが地震墓のある内房の橋上集落です。

そして,手書きの汚い赤い三角が,全く正確ではありませんが,白鳥山崩落場所のイメージです。

ちなみに,地図でみると,白鳥山の北東部が集落であるとともに,そこで大きく富士川が蛇行していることがわかります。長い歴史のなかで白鳥山が削られ,こうした流れになったのではないかとも想像されます。

 

しかし,実際には,たまたま質問した集落のご夫婦も,この地震墓の存在すら知らないという(もちろん,お墓の存在はご存知で,このお墓の意味合いをご存じないのだと思います)。

この橋上集落は,統計によれば,15世帯46人しか暮らしていない,本当に小さな集落であるにもかかわらず。。。。

幸い,写真からわかるように,きれいにお花がお供えされていました,集落の方はいまでもこの地震墓を大切に扱われていることがわかります。

そうであれば,ぜひこの地震墓の存在,先人が伝えようとしたメッセージを集落の皆さんで末永く共有していただきたいと思います。

 

残念ながら,過去の歴史からして,2030年代に起こると予測されている南海トラフ地震でも,白鳥山は崩落する可能性が極めて高いと思います。

その際に,富士川が堰き止められ天然ダムができた際の浸水想定とその場合に生き残る対策を実施し,また,先人の教えを守り,この地震墓より南には建造物を建てないことにより,1人の命も失われないことを切に祈ります。

ちなみに,平成29年の時点では,この地震墓の南には1つも建物はありませんでした^^

 

最後に,これは余談ですが。

今回の白鳥山崩落場所は,上地図の ✔ 付近。

他方,左側の × の場所は,大谷崩れです。

そして,南北に赤いラインを引いた西側,十枚山から竜爪山にかけてきれいなラインが地図でもわかりますね。

これが糸魚川静岡構造線(北米プレートとユーラシアプレートの境界)です。

この構造線(大断層帯ともいう)を挟んで,大規模な崩落が起きていることがわかります。

 

平成29年11月訪問

静岡市清水区 中央法律事務所

弁護士 永野 海

 

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