浜松市市民協働センターで開催された「Life 生きてゆく」の特別上映会にお声がけいただき、息子と二人で参加しました。

福島県であの日起こったこと、あの日から起こったことを教えてくれる浜松在住の笠井千晶監督(元SBS静岡放送報道記者)によるドキュメンタリー映画です。

この作品で山本美香賞を受賞しています。

 

舞台の中心は、福島県南相馬市です。

私が震災後最初に支援を開始した場所が南相馬の避難所でした。

この映画が伝えようとする1つが、(原発事故の報道に埋め尽くされて隠れてしまっている)福島の津波被害の実態です。私が南相馬に入った際、もちろん被爆の不安も強くありましたが、最初にみたのは津波被害の実態でした。まだ生々しい被災地の姿でしたが、特に津波が止まったラインの右と左の景色が全く異なることに言葉を失いました。

この映画で登場する上野さんは、ご両親、奥さん、長女えりかちゃん(8歳)、長男こうたろうくん(3歳)と、南相馬の海岸から約1km、海抜11mの場所にある自宅で暮らしていました。

上野さんは、当時JAの職員で、地震後、一度自宅に様子をみに戻っています。自宅には両親とこうたろうくんがいましたが、両親が「このあと避難する」と言ったため、安心して職場に戻ります。えりかちゃんは小学校にいました。

上野さんのお話では、震災直後はテレビもみれる状態で、岩手か宮城か記憶にないものの、津波が遡上するテレビ映像もみていたものの、自宅に津波が襲来するという意識は全くなかったそうです。

上野さんは、その後津波に遭遇しますが、両親の言葉があったために、家族は当然無事であるものと思っていました。

とはいえ家族の無事を確認して安心しようと避難所となっていた小学校に向かうと、現地では、「両親らは(一度小学校にはきたものの)帰ったよ」との説明を受けます。

それでもまさか自宅に戻っているとは夢にも思わず、他の避難所を探します。でもいない。

あとになり、両親が小学校でえりかちゃんを迎え、こうたろうくんも連れて自宅に戻り津波被害に遭ったことを知ります。

なぜご両親は自宅に戻ったのか。

当時、南相馬の防災マップでは、津波浸水予測は5mでした。自宅の海抜は11m。

津波からは安全な場所だと認識していました。

しかも、当初防災無線で呼びかけられた震災後の津波予想は3m。地区の誰もが安心したといいます。

実際には、その後津波予測は変更されたのですが、一度3mと聞いている住民には響かず、そのまま片付けを続けていたようです(生存者の証言)。

こうした背景があり、ご両親は自宅に戻られたのだと思います。

自宅は津波被災後の姿をみても、ものすごい風格のある立派な邸宅です。自宅こそ安全と思ったのはある意味当然だと思われました。

上野さんは、直ちに捜索を開始します。

ほどなく、えりかちゃんは、自宅近くでご遺体で発見されました。

ドライアイスもない中で、えりかちゃんをずっと抱きしめ、時間の経過とともに、様々な障害物と接触したのか皮膚にあざが浮かび上がる姿も見届けつつ、抱きしめたまま遺体安置所に運ばれました。

しかし長男のこうたろうくんは現在も発見されないままです。

周知のとおり、福島では、震災直後に原発事故が発生したために、宮城県や岩手県のような捜索ができない状態になりました。

原発から20km圏内では立ち入りさえできず捜索どころではありません。

ぎりぎり20km圏外の上野さん宅は、ほとんどの住民は避難したものの(というか映像でみる限り津波で一面何も残っていません)、滞在し捜索活動はできる場所であったため朝から晩までこうたろうくんの捜索を続けます。

上野さんによれば、そのときの心境は、親としてもっとも重要な子どもの命を守ってあげることができなかった。

息子をみつけ、息子にそのことを謝罪しなければならない思いが支配していたようです。

しかし、現在までこうたろうくんは見つかっていません。

わたし自身、震災直後に南相馬の津波被害の実態をこの目にしていながらも、その後の福島での支援活動は、原発賠償問題一色でした。

私ですら福島=原発被害の意識が支配しているのです。

メディアで連日福島=原発と報道された市民、国民は、福島の津波被害の意識を持つことが難しいでしょう。

上野さんがそうした報道の色彩に違和感をもつのは当然です。

特に、上映終了後の上野さんの次のような言葉が強く印象に残っています(以下はほとんど私の意訳です)。

「東北を忘れない。とか、3月11日が近づくとそうした報道ばかりがなされて、東北を応援しますみたいなムードになるが、東北をそんな表面的な言葉で語るなら東北のことなど忘れてくれて結構。東北を忘れないといって、それで失われた命が戻ることはない。娘や息子の命が戻るならどんなことだってするが、悔しいが娘や息子の命は戻らない。

大事なのは今生きている人である。東北を教訓にして、今生きているあなたや、あなたの大切な家族、友人、会社を経営しているなら従業員、そうした人の命を、東北を教訓にして守ってもらいたい。

鬼怒川の決壊のニュースをみた。ヘリに救出される高齢男性の姿が何度も流れた。多くの人は、助けられてよかったね、だろう。でも私は全く違った。バカじゃないか、どうしてそこにいたのか。前日から豪雨の情報があり、あんなにも川に近いところにいながらなぜ逃げなかったのか。

それをみて、東日本の教訓が全く生かされていないことに悲しくなった。憤りも覚えた。」(意訳ここまで)

私は無力ながら、東北でご遺族の皆さんから教えをいただいていますが、この感覚は皆さんに共通するところだと思います。

上野さんも、あまりにも東北の教訓が生かされていないことを痛感され、様々な場所で「語る」活動をされているのです。

自分と同じ悲しみをもう誰にも味わってもらいたくない。

自らの最愛の子の遺体を抱きしめて自ら安置所に運ぶようなことは誰にもしてもらいたくない、だからこそ教訓として学んでほしい、切実な思いです。

今日の上映会終了後の何人かの質問は、残念ながら、この上野さんや笠井監督の思いがはたして伝わったのか、と?がつく質問が多かったように感じました。

私も微力すぎるところですが、引き続き伝え続けていかないと痛感した夜でもありました。

以下、2つ補足です。

1つは、「公費解体」についてもこの映画をみて深く考えさせられたことです。

ちょうど支援制度に関する原稿の締め切りに追われていて、今朝は朝2時に起きて公費解体を含む原稿を書いていました。

でも、今日の映画にあった、上野さんにおける公費解体は、全く違う意味合いをもっていました。

映画では公費解体の申請に署名する上野さんの署名をフォーカスしています。

上野さんにとって、津波で被災した旧宅は、まだみつかっていないこうたろうくんを含めた失った家族と過ごしたかけがえのない場所です。

上野さんが公費解体を決めた直後の言葉が重く響きます。

自分は何も守れなかった。

この言葉には、子どもたちの命も守ってやれなかった(自宅に様子をみにいった時点では娘さんも息子さんも生きていたので尚更だと思うのです)。しかも親父から受け継いだ、そして子供たちと過ごした家さえも守れなかった、その悔しさが涙とともに伝わってきます。

公費解体、支援制度の範疇で語ると、それは希望につながる制度にもなり得ますが、上野さんにみる公費解体は、言葉にもならない一線を示すものでした。

上野さんは、「4年経つと子どもらの声さえ思い出せなくなってくるんです」と語りながら涙をこぼされていました。

旧宅が子どもたち、家族との記憶を残す本当に貴重な存在でもあるんです。

もう1は、津波被害と原発事故の関係です。

上野さんの言葉は、福島=原発事故被害、という社会の関心やメディアによる偏向報道の図式に一石を投じてくれますが、他方で、どこまでいっても津波被害と原発事故も切り離せません。

捜索できず、してもらえずずっと一人で娘を探し続けておられた大熊町の木村さん。

その後数多くのボランティアの人たちが一緒に1つ1つ瓦礫を撤去し、震災から5年以上たちお父さんの執念がわが子の遺骨発見につながりました。

それまで長い長い期間、捜索を手伝ってくれたのは国でも県でもありませんでした。

原発事故がなかったら震災直後に発見され、5年以上も小学校1年生の女の子が骨になるまで瓦礫の下でひとりぼっちになることはなかったでしょう。

上野さんのケースも同じです。

数日前にはじめて海上保安庁のダイバーが福島の海を捜索したというニュースが流れていました。

御遺族の希望があればまた捜索活動をしたい、という言葉もニュースに流れていましたが、これも原発事故が招来した結果ですね。

原発事故が隠してしまったのは、人々の津波被害への意識だけでなく、実際のご遺体そのものでもあります。

上野さんは映画の中で語っています。

長男が行方不明のままだけれども、もし震災直後に息子を発見してしまっていれば自分は自殺していたと思う。

自分の命を救うためにあえて行方不明のままでいてくれたのかもしれないと思うことがあった。

ぜひ機会を探してこの映画をご覧になって下さい。

平成31年2月

弁護士 永野 海