合掌造で大変有名な岐阜県白川郷。

 

とても美しいところなんですが,今回はその少し手前。

同じ白川村ですが,富山湾にまで注いでいる一級河川・庄川を少し上流に遡ります。

 

 

目的地に向かう庄川沿いは,とても美しい景色が続きます。

 

ここが目的地です。

いつものことながら,わかりにくいですね。

 

 

帰雲城の跡(かえりくもじょう・きうんじょう)。

写真中央の奥に見えるのが帰雲山。

若干わかりにくいですが(写真下手でごめんなさい),かなりの規模の山体崩壊跡がみられます。

 

 

この写真だともう少しわかりやすいですね。

1586年1月18日の夜中に発生した天正大地震(M8前後)による山体崩壊とされています。

M8前後と書いたように天正大地震についてはわかっていないことがかなり多いです。

被害範囲からするとM8クラスの濃尾地震(記録が残っている範囲での日本最大の内陸地震)よりも大きいですし,日本海の若狭湾と太平洋の伊勢湾の両方に津波被害が生じたというにわかには信じがたい話も,この天正大地震には存在します。

しかしこの場所を有名にしているのは天正大地震の規模そのものではなくて,

 

 

この天正大地震による山体崩壊で,帰雲城が一瞬にして土砂の下に埋没,城主であった内ケ島一族が瞬時にして滅亡,城下に住む1000~3000人規模の村人もすべて犠牲になったという悲しい史実があるためです。

なぜ,一族が一瞬で滅亡してしまったのか?

内ケ島氏は,当時,この帰雲城の北に萩町城(←実は一番最初の白川郷の写真を撮った場所が萩町城跡です^^),南にも向牧戸城などの居城を構えていました。

しかし,この天正大地震の直前に,豊臣秀吉側についていた金森長近との戦いに敗れたものの何とかこの帰雲城を含む所領を安堵された(金山により得た金を差し出し和解にこぎつけたとも)ことを祝って,帰雲城で祝宴を開くために,この場所に一族を全て呼び寄せていたのです。

そのときに天正大地震の山体崩壊が起こってしまった,と。

この何ともいいがたい悲運が,帰雲城に多くの人が惹きつけられる大きな理由です。

 

 

上記白川村による説明のとおりですが,

もう1つ,少なからぬ人がこの場所に夢中になっているのは,帰雲城がどこにあるか,いまもよくわかっていないことによります。

しかも,内ケ島一族は,金山を所有しておりこの城には数千億円から1兆円規模の価値のある金が納められた(と噂されているために),埋蔵金伝説としても有名なわけです。

 

Googleマップより

 

写真上が白川郷,中央に帰雲城碑とあるのが先ほどの写真の場所。

碑の右上には,さきほどの山体崩壊跡もきれいに見えていますね。

なので,Googleマップでは,その山体崩壊直下(庄川の東岸)を埋没地と記載していますが,実はそこがよくわかっていないのです。

 

 

たとえば,実際に帰雲城があったのは↑の×印のあたりで,西側の三方崩山の方の山体崩壊により埋まったのではないか,など諸説あります。

実際,昔の古地図をみると,帰雲山は,現在の庄川の西側に描かれていたりするので(現在の庄川の東側にある帰雲山は地震後に名付けられた模様),話はより複雑です。

 

 

現在,帰雲山と名付けられている山が山体崩壊していることは厳然たる事実ですから,逆にいえば,いくつも大規模な山体崩壊が発生した可能性があるということです。

また,当時の資料をみると,山体崩壊や土砂崩れにより生じた天然ダムの決壊により壊滅したというような下りもありますから,結局どのような自然現象を原因として被災したかは不明ですが,この場所に相当な地震によるエネルギーが発生したことは間違いありません。

天正大地震ではまさにこのあたりの断層が動いたと推察している人もいます。

 

 

ともあれ,このあたりは,白川郷はもちろんのこと,ダム建設によりダム湖に沈むことになってしまった村にあった樹齢400年(当時)の桜を移植した荘川桜でも有名な御母衣(みぼろ)ダムもあります。

御母衣ダムは,日本を代表するロックフィルダムで,写真では伝わりにくいかもしれませんが,なかなかの迫力です。

このように,この場所は,かなり都会から離れた山間部ではあるものの,非常に観光でも立ち寄りやすい場所にありますから,大地震による山体崩壊跡を伝えてくれる貴重な場所として,ぜひ訪問していただければと思います。

 

H29.5訪問

静岡市清水区 中央法律事務所

弁護士 永野 海