旧大槌町役場の津波被災事例にみる「災害マニュアル」や「過去の津波石碑」の意味について
(解体が遅れている旧大槌町役場)
事情あって解体が遅れている旧大槌町役場。
地震後、建物内は揺れで危険と判断しなんとこの役場前の広場に机を並べて「災対本部」の設営をはじめました。その後襲来する庁舎屋上近くまで達する大津波でこの場所で30名前後の町長を含む職員が亡くなりました。
直前、ハシゴで屋上に逃げようと数珠つなぎになりましたが全員が屋上にのぼる時間はありませんでした。
(写真奥の高台には中央公民館)
町の防災マニュアルでは写真3枚めの高台にある中央公民館に災対本部を設置するとありましたが実施されませんでした(しかも建物被災がない限り本庁舎に災対本部が設置される規則でした・・・)。
この仮設本部の設置については生存職員の半分近くがそもそも規定自体知りませんでした。
(明治と昭和の2つの大津波に関する石碑)
現場近くには明治三陸津波(右)と昭和三陸津波(左)の石碑が残っています。
もともとこの近くに設置されていましたが今回の津波で流され、明治の石碑は欠け、昭和の石碑には生々しい傷が残っています。
瀬戸元さんによると、一般に、明治三陸津波の石碑は犠牲者を悼む内容が多く、昭和三陸津波の石碑は、「ここに家を建てるな」とか「地震が来たら高いところへ」という後世に警鐘を鳴らす内容が多いそうです。
(昭和三陸津波の石碑とともに)
大槌町にもこの警鐘を鳴らす石碑がありましたが、結果は前述のとおりでした。
石碑だけを作っても仕方がないし、災害マニュアルだけを作っても仕方がない。
大槌町の生存職員アンケートでは、そもそもあの地震の揺れのあと津波がくると思っていた職員すら少なくし、きても防潮堤を超えないとか、自分は避難しなくても大丈夫だと思ったと回答していました。
平成30年8月訪問
弁護士 永野 海