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富士川断層の真相に迫る塩坂先生巡検ツアー(2) 富士川周辺観察編

まずは塩坂先生作図による富士川断層の概要をみてみましょう。

地図を南北に走る赤いラインが富士川断層(推定)です。

断層の西側に赤色で塗りつぶされたまとまりが3箇所ほどありますね。

これは南海トラフ地震により隆起した場所のうち明確に痕跡が残っている場所です。

南海トラフ地震では、西南日本をのせるユーラシアプレートが跳ね上がり隆起しますが、富士川断層で切られていますので、ユーラシアプレートの跳ね上がりによる隆起は、この富士川断層の西側だけで生じることになります。

 

この赤の塗りつぶし場所は蒲原地震山。安政東海地震(1854年)の際に隆起しました。

富士川右岸のこの図の黄色い部分全体が隆起し、富士川の流路も西から東へ、現在の位置に変化したのですが、こうした富士川断層の西側がきれいに隆起している事実は、富士川断層説(塩坂説)を裏付ける1つの事実となります。

なお、このあたりについては以前私もブログでまとめていますのでご参照ください。

http://naganokai.com/kanbara-jisinyama/

 

では、実際に隆起した場所をみてみましょう。

 

少しわかりにくい写真で恐縮ですが、この日訪れた蒲原地震山付近では隆起の事実を、2つの方向への下り坂という光景をとおして感じることができます。

安政東海地震で土地が隆起し新田開発ができる土地面積が増加したため、地元の民衆は、地震さんまた来ておくれ、と喜んだという伝承がこの地域にはしっかり残っています・・・(苦笑)

(他方で土地の隆起に伴い富士川の流路が東にずれたために、富士川の左岸では洪水が増えたという記録も同時にあります)

 

次はこの赤丸部分。

富士川断層と東海道新幹線の高架が交差する場所にいってみましょう。

 

到着しました。

わかりますか?

いずれも写真右が東京方面、左が名古屋方面ですが、東京方面から富士川をまたぐ鉄橋は、途中まで普通の鉄橋ですが、断層が走る部分だけコンクリート等で補強がされています。

新幹線には、地震の際に先に到達するP波を感じて自動的にブレーキがかかるシステムが導入されていますが、この富士川断層は動くときは「直下型地震」ですから、先にP波を受け取ってブレーキをかける、というのはなかなか難しいかもしれませんね。

(富士川断層が動くより「前に」南海トラフ地震が発生してくれればそちらの地震波でブレーキが作動してくれるかもしれません)

 

これがボーリング調査の結果による、塩坂先生が作成された富士川及びその東側付近の地中の断面図です(図の左が西、右が東(富士山側)です)。

この図からわかることは、

①富士山のある東側から新富士溶岩流たる大淵溶岩(1万年以上前)と、その後に入山瀬溶岩が流れてきて地中に堆積していること(富士山からの流れに沿って傾斜がありますね。溶岩の層の上にはその後の河川の扇状地堆積物が堆積しています)

②図の中央やや左の富士川断層を境にその西側が大きく隆起をしていること

③その結果、本来断層の東側のような深いところにあるはずの大淵溶岩が地表まで上がってきていること

などです。

 

これに関係するのが先程の地図でいうとこちら。

地図中央の「人」の形になっている赤い塗りつぶし。

これは富士山から流れてきた大淵溶岩が、南海トラフ地震による富士川断層の隆起により地上にあらわれたものと考えられます。

大淵溶岩流を起こした新富士火山の噴火年代は、文献をみても諸説ありすぎて混沌としていますが、おおよそ1万年前前後の、富士山が北東に猿橋溶岩を流したり、南に三島溶岩を流した非常に活発な時期のもの、という程度の特定にしておきたいと思います。

溶岩の痕跡が「人」型になっているのは、その周囲は富士川の流れにより侵食されたためであると考えられます。

 

この赤いラインの下に、南海トラフ地震により隆起して地上に現れた大淵溶岩流を観察できます。

 

この日撮影した写真でいうと、拡大するとこんな感じ。

以前、私が撮影した別場所からの写真もご紹介しておきます。

 

このように富士川の河床におりてみると非常に迫力のある溶岩流の痕跡を観察することができます。

(以前はこれを入山瀬断層の隆起によって地上にあらわれた溶岩の痕跡として説明していましたが訂正しますm(__)m)

ここで大淵溶岩が隆起していることから、先程の説明に即すれば、この隆起した溶岩部分よりも東側を富士川断層がとおっているものと考えられます(富士川断層の西側が南海トラフ地震により隆起するからです)。

 

隆起した大淵溶岩は、このあたりでは河床だけでなく、さきほどの図で「人」型になっていたとおり、富士川の左岸(東側)でも観察することができます。

 

富士山から流れた玄武岩質の(二酸化ケイ素の濃度が低い)さらさらした溶岩はここで当時の富士川の流れに冷やされ(現在の扇状地堆積物が堆積する前の時代の話です)、冷却により収縮しこのような六角形の柱状節理を作りました(柱状節理についてはこれまでのブログをご覧ください)。

柱状節理のしたには、当時の河床の地層がみえていますね。

http://naganokai.com/jyougasaki-kaigan/

 

崩れ落ちた柱状節理の一部。

 

現在の富士川左岸に沿って続く溶岩の柱状節理。

 

塩坂先生によれば、この柱状節理は上下2段にわかれてみるところ、下段は富士川の水で冷やされた柱状節理(節理がはっきりしています)、上段は空気中で冷やされてできた柱状節理とのことでした。

 

ここも同様。

 

柱状節理のなかに岩が砕けたようなところがありますね。

 

この部分。

これは、富士川に溶岩流が流れ込んだ際に、溶岩の1000℃以上の熱によって川の水が一瞬で熱せられ水蒸気爆発をした痕跡(スパイラクルといいます)です。

 

ここにもスパイラクルが。

 

(写真奥が西、手前が東 奥に見えるのは岩淵安山岩からなる500万年前の火山)

なお、富士川の右岸(西側)の富士川断層より西の部分は、主として写真奥の火山が誕生した500万年前の岩淵安山岩の硬い地層から成っています。

 

富士山だけでなく、富士川の西側にも火山があったなんて、いままで全く知りませんでした。

続く(3)では、富士川断層をさらに北上して観察するとともに、富士川断層の西にもう一本走る善福寺断層の露頭を観察します。

 

平成30年7月 弁護士 永野 海

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