津波被災地に行かれるなら、必ず、

事前に現地で説明をしてくださる防災ガイドさん、語り部さんを調べ予約をしましょう

一人で被災地を歩いてわかった気になるのは、あまりにももったいないし、実際、私も経験がありますが、一人で被災地を歩いて、勝手に理解をしたつもりになっていたら、後日、

そこは全然違う場所だった

とか

地元の方が感じたことは全く別のところにあった

 

などということがでてきます。

間違った情報で思い込むほど残念なことはありません。

ということで、今回は、

http://www.kankou385.jp/bousai/

宮古観光文化交流協会さんの「学ぶ防災ガイド」さんにご案内をお願いしました。

 

教えてくださったのは、澤口強さん。

あの日、田老で生協の配達をされていました。

曰く、地震のあと、津波の危機感が強くあったわけではないが、みると山に避難していく人たちの姿をみて、「避難のスイッチ」が入った、とのこと。

山に避難したことで一命をとりとめられました。

ちなみに停電により、津波避難を語りかけるはずの防災無線は機能しませんでした

 

ここから過去の津波浸水区間、の看板があります。

澤口さんがトラックを置いて徒歩で避難されたのがまさにこの道です。

 

この東日本大震災の津波到達位置を示すこの看板は三陸中を埋め尽くしています。

愚かなことに、静岡市では、一部地域で、この津波看板(浸水想定)を住民の要望で撤去したことはこれまでにも述べました。

現に誰かの命が奪われないと学べないというのは悲しいことです。

 

この山を上った途中にさきほどの3.11のときの津波到達地点の看板があります。

 

他方で、昭和三陸津波はここまででした。

さきほどの東日本大震災の津波到達点は、前述のように、ローソンの看板の奥の山の中腹ですから、かなりの差があったことがわかります。

*ちなみに明治三陸津波は昭和三陸津波よりも大きなものでした

 

東日本大震災の津波到達ラインから田老の町を見下ろします。

こんな山の中腹まで津波がくるなんて、実際ここにきてもピンときません(ましてや被災地を訪問しない場合に想像する難しさは・・)。

また、過去の津波到達点(ここでは昭和三陸津波)や、ハザードマップを前提に考えることがどれだけ恐ろしいことかがわかりますね。

 

東日本大震災の津波到達点からローソンの看板(昭和三陸津波の津波到達点)を見下ろします。

今回の津波がどれだけ過去の最大津波よりも大きかったかがわかります。

 

 

過去の津波災害を教訓に残す石碑は田老にもありましたが、もちろん石碑を作るだけではどうにもなりません。

 

(青のプレートは3.11の津波到達ライン)

田老の歴史は津波被災の歴史でもあります。

江戸の慶長三陸地震津波では村がほぼ全滅。

 

1896年の明治三陸津波では、人口の80%以上が犠牲になりました。

 

(階段がない避難路も整備されていた)

1933年(昭和8年)の昭和三陸津波でも、住戸の大半が流出、全人口の3分の1が犠牲になりました。

 

(避難路はかなり上まで続いている)

明治三陸津波のときも昭和三陸津波のときも高台移転案がでましたが、最終的には、地域の判断として高台移転は行いませんでした。

海岸から離れて暮らすことを住民は選ばなかったのです。

現在と異なり、高台に移転したあと港まで簡単にでれる車などの移動手段も発達していなかったという事情も考慮しなければなりません。

 

(3.11で破壊された田老の防潮堤)

そこで昭和三陸津波後に住民の命を守るために築かれたのがこの二重(Xの形)の巨大防潮堤です。

昭和三陸津波の翌年から着工され、西洋の城壁のように田老の町を取り囲む海面からの高さ10mの巨大防潮堤が完成したのはなんと32年後でした。

町は、「津波防災の町」を高らかに宣言し、先進の津波対応を誇ることになります。

 

 

 

田老の津波防災で重要なのは、当時から、町は「防潮堤を軽信した防災」はしていなかったことです。

10mという防潮堤は高いようにも思いますが、明治三陸津波の15mの津波をカバーできていません

そのことを映像をみせるなどしながら町は住民に徹底して教育してきました。

防潮堤=津波を遅らせるもの

そこで、防潮堤だけでなく、町の各所に津波避難路が整備され、住民に率先避難の重要性を説いていたのです。

 

 

 

上記は田老第一中学校横の「赤沼山」の山頂の写真です。

この山は津波の際に避難する高台の位置づけですが、様々な方向から山頂まで避難できるように複数のルートが整備されているのです。

 

大沼山からみる田老第一中学校。

実際、サンプル数は少ないのですが、住民アンケートによると、田老の住民は、仙台市や女川町などと比べて、地震直後の避難開始率が遥かに高かったことがわかっています。

 

あの地震後、この中学校の校庭には生徒や住民あわせて300名ぐらいの方が避難していました。

このあたりの海抜は10m程度。

防潮堤の存在もあり、ここまで津波がくるとは思っていなかったからか、大多数の避難者はすぐ横の山に登ってまで避難しませんでした

 

そして、防潮堤の存在が、中学校から海の様子を観察できなくしてしまっていました

津波が来る様子がみえなかったのです。

 

(赤沼山からの田老第一中学校)

しかし、おそらく津波の第2波が起こした巨大な水柱だけが(30mとも言われています)、校庭からも視界に捉えることができました。

そこで校庭の避難者は一斉に赤沼山に避難しました。

避難路は渋滞したため、皆、斜面を駆け上がったといいます。

 

(田老第一中学校横の建物に記された3.11の津波到達プレート)

その後津波は田老第一中学校にも押し寄せました。

しかし津波の水柱を発見し、一斉に避難を開始したために間一髪難を逃れることができました。

 

3.11のあと、学校の裏には、さらにもう一箇所、津波避難ルートが新設されていました。

 

避難路の追加は、あの日赤沼山への避難路が渋滞したことも考慮されたのかもしれませんが、かなりの傾斜で高齢者には難しい避難路だと感じました。

 

ここも東日本大震災の前から存在した津波避難路です。

 

しかし、ここに大勢の住民が避難に押し寄せた際、スロープではないため車椅子で避難してきた方が登れませんでした。

 

パニックになる中、みなで必死に車椅子を持ち上げようと動いたようですが、それにより避難渋滞が生じてしまい、上に登れなかった住民の方が津波の犠牲になってしまったということです。

 

階段には、いまもその時に車椅子を必死で引きずった痕跡が残されています。

高台避難では様々な想定が平時から必要です。

 

田老の皆さんは、明治以降3度目の大津波の被災を受け、今回は、高台移転を選択されました。

保育所も診療所も高台の上に設けられています。

 

高台にある保育所。

 

高台にある平屋の災害公営住宅。

このタイプの公営住宅は人気のため抽選になります。

 

高台のさらに上には眺望公園も整備されました。

 

分譲住宅も含め高台移転(防災集団移転促進事業)が完了しています。

仮設住宅の多くは、私がこの前日に宿泊したグリーンピアの敷地内に設置されていました。

 

高台からみる田老の防潮堤。

3.11後、津波で浸水した低地には、住居専用の建物の建築は禁止され、作れるのは店舗兼用住宅のみになったということでした。

 

さて、防潮堤。

田老には、震災前から、新旧二重の巨大防潮堤がありました。

海面からの高さは10m(地上からは7.7m)。

写真左が最初にできた防潮堤、写真右は破壊され取り壊された新しくできた防潮堤です。

 

ものすごい迫力の防潮堤でしたが、津波は楽々とこの防潮堤を超えてきました。

そして無残にも海側の防潮堤は破壊されました。

鉄筋も入れていない単に積み上げただけの手抜き工事だったという指摘もあります。

 

当時、水門があった場所。

防潮堤は、一部には、その存在により住民の避難意識を低下させ、避難が遅れた(あるいは避難しなかった)ことによる犠牲を生んだとも指摘されていますが、

他方で、津波到達時間を遅らせ、また津波の勢いを弱めたとも言われています。

極端に走らず、冷静に防潮堤の議論をすることが大切です。

 

(写真左奥には新しい防潮堤)

田老の町は、再度、防潮堤を建設する選択をしました。

前の防潮堤よりも4~5mさらに高くし、15mほどあります。

他意はありませんが、思わず、バベルの塔の話を思い出してしまいます。

 

 

の一言ですね。

この防潮堤が次の大津波に対してどういう効果を発揮してくれるかはわかりませんが、確実にいえることは・・・

 

これにより海がみえなくなるということです。

海沿いの町とは何か、という話でもありますが、同時に、大地震が起きたときに、海の様子がわからないという大きなリスクがあります。

 

田老第一中学校では、かろうじて、巨大な水柱がみえたことで避難につながりましたが、この防潮堤は地区の住民に、津波がきていることを教えてくれるでしょうか。

震災から7年、すでに住民の津波意識は低くなっているとも聞きます。

 

少なからぬ住民が、現に津波の姿を目にしない限り本気では逃げない、という行動パターンを持つことからも将来が心配されます。

 

なお、新しい防潮堤は、陸に向かって、L字型、をしていることがわかります。

 

新しい巨大防潮堤の中。

漁船が並んでいます。

これが本来の田老の生業です。

 

この田老の製氷施設は有名ですね。海水からも氷を作ることができます。

過去3度の津波の高さの違いがプレートで示されています。

 

6階建の旧たろう観光ホテル

この4階まで津波が襲来しました。

 

震災遺構として残すべく、旧所有者から宮古市に寄贈されました。

すでに耐震補強も終わり、防災ガイドツアーでは、ホテルの中に入ることができます。

 

当時、たろう観光ホテルの社長は、従業員は高台に避難させた上、自らはホテル6階から防潮堤を超える津波の様子を撮影し続けました

その映像は外部には公開されず、このホテルの6階の部屋に設置されたテレビ(社長が動画を撮影した部屋)でのみ見ることができます。

ここでこの映像をみて感じてほしい、という思いからだそうです。

 

たろう観光ホテル内部の様子。

田老の津波の様子は、上記の映像ほどではありませんが、おそろしさを伝える映像がYouTubeなどで複数ありますので一度ご覧ください。

https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%94%B0%E8%80%81%E3%80%80%E6%B4%A5%E6%B3%A2

 

津波の力で歪んだエレベーター。

 

同じく歪んだ避難階段の手すり。

 

ホテルの津波浸水地点である4階から撮影した田老の海沿い。

この高さまで津波は襲来しました。

 

その4階に入る扉。

 

こちらは5階の廊下。

津波は4階までなのできれいに残っています。

 

 

  

5階のきれいに残った部屋をガイドさんの案内で見させてもらいました。

 

当時からあった「津波に対する心得」。

このホテルでは津波防災意識は決して低くありませんでした。

 

ここが社長が動画を撮影し続けた6階の部屋。

このテレビで撮影動画をみることができます。

 

このアングルです。

当時はもちろん住居が密集していました。

映像からは防潮堤が津波到達を遅らせる様子が克明にわかります。

他方で、防潮堤を超えたあとは10秒もしないうちにこのホテルまで大津波が押し寄せるという津波の威力も見せつけられます。

 

社長は、ホテル従業員についてはこの裏山の避難路を使って速やかに避難させ、全員無事でした。

 

ホテルに残った社長は、まさかこのホテルの4階まで津波がくるとは想像できなかったのかも知れません。

津波が4階まで押し寄せた瞬間、数秒間ですが、撮影カメラが天井を向きます。

このときの記憶が社長にはないそうです。

 

たろう観光ホテルの屋上から撮影した新しい高台の住居地区。

高台の一番下でも、たろう観光ホテルの屋上よりも高いことがわかります。

 

澤口さん、2時間のガイドを本当にありがとうございました。

頭のなかが整理しつくせないほど勉強になりました。

 

ちなみにこのガイドさんの案内所が入る建物には、大川小学校と同じ復元模型がありました。

 

大川小学校跡地の模型と同じように、一人ひとりの町の思い出が記されています。

その後訪問した大槌町にもこの模型がありました。

 

最後に、地学を愛する私が素通りできない田老の三王岩を。

地層の下部は、大きな礫が集合してできている礫層が美しいです。

その上は整然とした砂岩の地層になっていますね。

奥の岩も同じ層序になっているので、かつては全部が陸だったのが、侵食の結果、この部分だけが残されたのでしょうね。

右側の通称太鼓岩は、ロッテのチョコパイのようですが(笑)、陸から落ちてそのまま残っているものと思われます。

 

平成30年8月訪問

弁護士 永野 海