安政大津波の碑(大阪市大正区)
大阪市大正区、木津川にかかる大正橋
大阪湾から近い大阪ドームの近く大正橋の東詰。JR大正駅から徒歩すぐです。
ここには写真のとおり安政南海地震の津波碑があります。大阪人でも99%以上の人が知らないでしょう(私も大阪ドームに行ったことはあっても知りませんでした)
この江戸時代の人が残してくれた津波碑は、そんじゃそこらの内容じゃありません。全文がむちゃくちゃ長く、また極めて示唆的です。
津波記をちょっと読んでみましょう。
1854年、安政南海地震の5か月ほど前に大きな地震があり、三重や奈良では死者多数、大阪の人も余震を恐れて川のほとりにたたずみ4,5日不安な夜を過ごした
海溝型の大地震の前には地震がたくさん起こります。当時は建物が弱いので家の中にいることはできないんですね。
そして5か月後の当時の11月4日、安政東海地震が発生します。
5か月前の地震もあったので、人々は空き地に小屋を建てて年寄り子どもが避難していた
この地震では大阪湾には津波はきませんでした。
しかし、海溝型地震に関して正しい知識がない当時の人々、
地震でも海の上なら安全とむしろ考えて、小舟で避難している人がいた
と書いてあります。なるほど。
そんな中、翌日、今度は安政南海地震が起こります。
大阪の家々は崩れ落ち、火災があり、それがおさまったかに思えたころ、雷のような音とともに一斉に津波がおしよせてきた
木津川の河口まで山のような大波がたち、東堀まで1.4mの泥水が流れ込んだと。船は流され、川は逆流し、橋は全て崩れ落ちたと書いています。道頓堀川の大国橋では横転した船が川をせきとめた
当時何が起こったのか、非常によくわかりますね。
そしてこの人は、
以前の宝永地震(1707年)のときも小舟で避難し、水死した人が多数いたと”聞いている”
と書いた上で、
それから100年以上経ち、この教訓を語り継ぐ人がいなかったので、同じ犠牲がまたでてしまったのだ
と教訓を生かせなかったことを嘆いています。
そして、今後もこのようなことは起こるので、
地震が発生したら津波が起こることを十分に心得、船での避難は絶対にしてはいけない。また、家は壊れ、火事にもなるので、お金や大事な書類などは大切に保管し、船は流れの穏やかなところにつなぎかえ、早めに陸の高いところに運び津波に備えよ
と後世の人々に語りかけています。
さて、これは1855年7月に建立されたものですが、なんという示唆的な碑でしょうか。
さらに知ってほしいのは、この津波碑の最後には、こう書いてあることです。
「つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、つたえていってほしい」
東日本大震災でも、高校生が、あえて教訓を語り継ぐために、石碑ではなく、木製の碑にして、定期的に作り直す仕様にした、知恵の溢れる活動をされていた方々がいましたね。同じ趣旨です。
そして、現代の大阪の人は、この賢明な先人の教えを守り、平成17年に、費用を投じて、この当時のケヤキに書かれた碑に、「墨入れ」を行いました。
そして、写真にもあるように、この教訓を「フタを開いてご自由にお取りください」という箱を作り、大量のカラー用紙に印刷して常備しています。津波記念碑備品倉庫までありました。
大阪の皆さん(だけじゃないですが)、これだけビルが建ち、アスファルトに覆われると、津波は静岡や高知の話と思って、地震後も避難しないかもしれません。
でも150年以上前に、大阪にはこんなに賢く、将来の大阪の人々を守りたいと思っていた人がいます。
どうか先人の意思を継がれますように。
令和元年5月
弁護士 永野 海