無から生み出す未来(女川町はどのように復興の軌跡を歩んできたか)神谷隆史著/PHP研究所
無から生み出す未来(女川町はどのように復興の軌跡を歩んできたか)
神谷隆史著/PHP研究所
女川町の復興過程について,極めて丁寧に調査,取材をされた結果に基づく素晴らしすぎる定点観測をされた書籍です。いまは電子書籍にもなっているようなのでたくさんの人に読んでもらいたい。
町の復旧や復興は町ごとに違うので,女川で起こった事実を知ったからといって他の町や将来の災害での復興にそのまま生かせるわけではないですし,この著者のまとめへの反論もあるのかもしれませんが,私は本当に勉強になりました。
一部(多すぎる?),心に届いた部分や重要な記述と感じたところを,以下,引用してご紹介します。
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()部分は私の挿入です。
・(なぜ女川なのか?)女川は震災前,人口一万人の独立自治体だった。この規模の社会だと,個々の人々の動きや地域全体の動きもとらえられそうだし,被災者の一人ひとりにもじっくりと向き合えそうだ。そして,主な産業は水産業のみと,町の構造もシンプルだ。隣の石巻や気仙沼では,サイズが大きすぎ,地場産業も複雑で・・・
・女川では人口一万人のうち,940名にものぼる住民が犠牲になり,住宅の80%以上が全半壊。
・(被災を免れた)「(原発による)電源立地促進対策交付金事業」で整備された町立病院,総合体育館,野球場,陸上競技場などが被災後の町を支えた
・「復興」に立ちはだかる壁の大半は,カネの問題ではなく,人間の感情や現行の社会システムに鍵がかかってえいることから生まれていることが多い
・(女川の)水産加工業は震災前から負のスパイラルに陥っていた。補助金などで,たとえ震災前に戻っても,町の将来がないことは明白であった
・「持続可能な水産加工(復興)」と「個社の生き残り(復旧)」というせめぎ合いは現在も続いているが,既存の水産加工会社を再編し,新生水産加工会社数社が生まれ・・・
・女川の「町の復興」の大きな特徴は,「住民が主役,名脇役の行政」だ。「住民が主役」とは,どこでもよくいわれる。しかし,住民がどのような役割を果たせば主役なのか,行政との関わり方など,女川の復興プロセスは「住民が主役」の意味を考えさせてくれる
・町づくりの青写真は住民の思いや生活に裏付けられたものでなければ・・しかし町は・・復旧と・・・復興計画の策定で手一杯・・・一方,住民は危機感や復興への思いは強かったが,その思いや情報は断片的で,それだけでは復興の絵は描けない。それを統合し,「ビジョンやコンセプトを生み出す」ことが必要だった
・復興・・住民に「自分たちが町づくりの担い手である」という当事者意識が必須・・・県が打ち出した「漁業特区構想」にはそれが決定的に欠けていた
・コンパクトな独立自治体であることも,住民が「主役意識」を持てた要因。何を言ってもどうせ届かないだと・・・思考停止を起こす。しかし,女川町は全体を俯瞰できるし,自分たちの意見や要望が届き,反映されるので,住民が思考停止を起こさないのだ。
・女川復興の底力になっている「共同体の力」を考えると,都会で大災害が起こったらどうなるのだろうかと考えずにはいられない
・(女川の特徴)浜への愛着伸や連帯感は強く,困ったときには助け合うが,こと仕事については競争相手であり,協力しあうことはほとんどない。まさに一匹狼的世襲家業の集団だ
・震災前の状態に戻るための「復旧」のドライバーには,政策や行政の支援に支えられたカネや土地という物理的な資源が重要・・・物理的な資源が与えられると,人々は「復旧」に向かって動き出せる。・・・しかし,・・・新しいビジョンやコンセプトを生み出し,関係者のベクトルを合わせていく必要のある「復興」においては,カネや土地などの支援はドライバーにならない
・変革リーダーの出現こそが,復興のドライバー
・そのリーダーは,地域に骨を埋める覚悟の内部者でないと担えない。その地域の現実や人々の心理を知り尽くし,自然と人が集まってくる人望,なんとしても町を復興させるぞという強い郷土愛やエネルギーがないと復興は進まない
・(女川で出現したリーダーに)共通するのは,私心のなさ,将来や町全体を見据えた志の高さ,ネットワーカーとして町内外の知恵や情報,人間を結合する巧みさ
・(発災直後)各避難所では沢水や湧水で凌いでいた・・・残されたお菓子や探し出した缶詰で食いつないでいた
・配給が始まったのは一週間後,総体(総合体育館)で1日3食になったのは五月初旬・・朝食はずっと菓子パン・・・高齢者,とくに糖尿,高血圧持ちには過酷だった。おにぎりが配られたのは6月に入ってから
・4月1日・・・その会合では,商工も水産も漁業も一緒にやろうという気運になり・・・大半は四十代以下の産業団体の若手経営者で構成・・・復興は若いものに託すべき・・・行政などへの折衝の重しとして,60歳以上の年長者はすべて「顧問」にした
・当初は3日に1回は集まり,その後も週1度のペースは続いた
・このままだと町がなくなる,何もしなかったらどうなるのか,危機感が共有され,町の復興のため自分のことは我慢しよう,という機運が芽生え,すべての業界の代表者が垣根を越えて町の将来を考えた
・行政に第1回の問題提起をしたのは5月初め・・・何度も何度も町に提起し続けた
・(コンセプト)住み残る・住み戻る・住み来たる・・・この3つを柱に女川はコンパクトシティをめざす・・・さらに具体的なコンセプトとして,「海が見える」「命をなくさない町」「むだのない持続可能な町づくり」なども,その後の町づくりに大きな影響を持った
・嵩上げ工事の高さは3段階・・・港湾・水産加工ゾーンは2メートル・・・国道に囲われた商業ゾーンは5.4メートル,チリ地震津波程度は道路で減殺する考えで設計・・・さらにその奥の住宅ゾーンは8.5メートル以上。百年に一度の津波を防ぐ高さまで嵩上げ・・・それ以上の高さ,千年に一度の津波では「逃げる」のだ
・現地に行ってみると,他の市町村と設計思想がまるで違う・・・200ヘクタールを超える広々とした市街地全体が嵩上げ・・・防潮堤がないので,海が見える。建物のほとんどが流されてしまったうえ,3000人を超える土地所有者が造成に同意したからこそ着工可能となった
・防潮堤を築かないことは深い議論を経た結論・・・最初は「防潮堤で二重三重に囲った安全な町」だったが,「高く囲った防潮堤があると,百年も経てば今回の教訓も風化してしまう。風化させないためには常に危険にさらすことが大切で,『自分たちの町は危ないんだ』とみんなが認識していれば,地震が起これば逃げるでしょう」に変わった
・民間経済団体すべてが垣根を越えて結集したFRK(女川町復興連絡協議会)・・・(行政の)枢要な復興案には,FRKに必ず意見が聴取される存在になっていた
・当初の町のゾーニング案は,町立病院を境に左右にバラバラに切られており,中心街を分断するものだったが,現在では山を削って町をつなぐ案に修正されている(←現地でみた光景の意味がようやくわかった)
・FRKは一年の活動を経て,「復興ビジョンづくり」という当初の目的は果たした・・・次のフェーズに・・・町主導の町づくり協議会WG・・・にFRKメンバー15名が加わり・・・
・FRKは産業団体だけで構成されていたが,このWGには住民代表が入っているのが特徴
・女川町は地域住民重視で心と身体とくらしを一体化している。通常は,身体は医療機関,心はカウンセラーや精神科医,くらしは福祉協議会と縦割りになっているが,女川は縦割りをなくしているのが特徴。そこで出てきた情報を各部署で共有している・・・保険センターだけでなく,地域に出て行っている(アウトリーチ)し,悩みがある人が立ち寄って相談できる場所をつくった。
・(心のケア)5月ころから・・・違和感を覚え始める・・・ほんとうは町民全体を対象にする必要があるのではないか・・・避難所では「心のケア」のゼッケンをつけたスタッフが寄っていくとサーっと住民がいなくなった
・心のケア=心が弱い,特別な人が受ける,「身体の治療は受けるけど心は別に」と心を閉ざす人。結局,問題は一般住民にとってのバリアの高さにあることい思い当たる(←法律相談支援と同じだ)
・(ハイリスクアプローチからのパラダイムシフト)女川町民は80%が被災者で,近親者の死,離別,財産や仕事の喪失,避難所,仮設,転居などに伴う人間関係の変化,コミュニティの崩壊,慣れ親しんだ環境の一瞬による破壊によって,広範囲な地域で,甚大な喪失体験
・軽症の人を含め,地域や家族支えあうことが大切ではないか
・(新しいシステム)軽度例は地域の支えあい(地域主体のサロン活動・お茶っこ・健康教室・通常の保険活動・医療等),軽症例は一般診療と地域の支えあい(専門家と地域の協働。地域活動に加え,傾聴ボランティア等との連携,アウトリーチ,こころのケアナースから総合医へ),重症例は一般診療,さらに上は精神科診療