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「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場」から学ぶ津波防災 

@東北から津波避難を学ぶ
(静岡の人に知ってもらいたいので、超長文です)

「紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場」(佐々涼子・早川書房」

小村先生の読書会で選ばれていましたので個人的に手に取ってみました。日本製紙石巻工場の話ですし。

この本の最初の50ページには、私がいつも静岡での津波防災の講演でお伝えしている津波避難のポイントが見事に凝縮されています。

静岡の皆さんにはぜひ手にとって、あの瞬間に何が起こったのか、人々はあの地震をどう感じ、どう逃げたのか、あるいは逃げなかったのか、臨場感をもって書かれたこの作品から学んでください。

ただし、この作品にはかなり厳しい場面が多数描かれています。そしてこの作品は残念ながらノンフィクション小説なのです。行方不明の方を含め2万人近い方が犠牲になった未曾有の自然災害です。この作品を手にとるのは、未被災地ではないと難しいのではないかとも思います。

以下、(といっても全員がこの本を読まれるわけではないでしょうから)、この本からも読み取れる、津波避難のポイントを整理しておきます。

◎日本製紙石巻工場 当時の工場内人数1306名(協力会社含む)

たとえば以下のような事情により、大地震後の津波避難というのは、それが仕事中に起きた場合には、そんなに言うほど簡単ではない場合があることをまずは知ってください。

(津波避難を妨げる従業員の責任感、仕事内容)
石巻工場は製紙工場です。工場には巨大ボイラーがいくつもあります。巨大ボイラーが地震で停止した場合どうなるか。ボイラーで発生した蒸気によって、タービンを高速回転させています。タービンは急にとめると、500度もの高温になっているタービンの軸が15トンという重さでたわみます。タービンは一基20億円です。一度ゆがむと想像もできないような莫大な費用を伴う交換が必要になる上、再稼働に2年かかります。当時電源喪失しました。そのため、タービンのゆがみを防止する自動回転装置が機能せず、このタービンのゆがみを防ぐにはタービンの羽根を手動で回転させ続けなければいけませんでした。

この状況では、タービンの責任者としては津波避難は極めて困難です。また、他の従業員にしても過去の2度の地震でも津波が襲来しなかったため、地震の揺れには驚嘆しながらも津波の危機意識は低かったのです。

(それでも津波避難が可能となった理由)
それでも、石巻工場内の従業員が津波から命を取り留めることができた(避難できた)理由はなんでしょう。

以下の6点にまとめられそうです。おそらくこの中の1つでも欠けていればこうした結果にはならなかったおそれがあります。

1、津波到達が遅かった
東北は地震発生域である日本海溝まで遠いので津波到来まで30分を大きく超える時間がありました。この石巻工場で実際に避難までにかかった時間は、工場の職場から工場の正門までは1km程度距離がある場合もある上、避難開始は地震発生後30分後だったため、40~50分というところでしょう。この避難時間を前提にすると、南海トラフの沿岸部では全員逃げ遅れて命を失っています。

2、率先避難者の存在
他の従業員の避難をみたことで、多くの従業員が一応避難しておこうと決断できた
(本文より引用 …外の様子を見に行った課員が、慌てた様子で戻ってきて「ほかの課はみんな避難を始めています」と報告をした。玉井はオペレーターたちと目を合わせた。「逃げましょう」)

東北の多くの場所で、人々の命を救った、これが率先避難者をみて他も避難する現象です。トートロジカルですが、誰も逃げなかったら、誰も逃げません。誰かが逃げると、徐々にみんな逃げ始め、命を守られます。あなたが人々の命を救う率先避難者一人目になりましょう。

3、工場至近の日和山の存在
工場正門のすぐ前に逃げられる高台(日和山・標高約61m)がありました。車は避難渋滞を起こしていたが、徒歩での避難が可能な距離に避難場所があったのです。そして、山(というより丘)なので、想像より高い津波がきてもさらに上へ上へと二次避難ができました。

*ただし、日和山への避難が可能だったのは遠い日本海溝が震源の海溝型地震だったからです。宮城県沖地震では震源地が列島に近いので、津波襲来はもっともっと早い。また地震による海底地すべりによる津波も一瞬できます。そこで、石巻工場では、現在は大地震後の避難地は日和山ではなく工場内の二階以上の堅牢建物と変更しました。私はこの判断は石巻工場の立地を考えれば適切だと思います。特に工場正門から遠い場所で地震に遭遇した場合には。科学的知見に基づく避難場所の合理的検討が非常に重要です。

より具体的には、まずは2階以上の建物に避難した上で直ちに防災ラジオ等で情報収集を開始する必要があります。情報収集の結果、津波到達時間まで余裕がある場合には、日和山への避難に変更ができればベストだと思いますが、その情報が確かだと確信することは難しく、非常に難しい判断になり、かえってリスクを増大させる可能性もあります。とても難しい課題です。

少なくとも、現時点でできる改善を併行させる必要があります。建物の構造上、なるべくさらに上に安全に逃げられる改修を行う。避難を想定する場所に最低限の水、食料などの備蓄を行えるスペースを確保する。建替えの際には抜本的な対策を施す、など。

4、訓練の存在
緊急地震速報後、全従業員が津波避難をする避難訓練を日頃から行っていたので避難放送の手順がスムーズだった

5、避難責任者による極めて適切な判断
当日の避難責任者である総務課主任は、工場から車で5分程度の石巻市役所で打合せをしていたにもかかわらず、地震後津波を直感し、直ちに工場に戻り避難命令を発した(責任者の判断と行動が極めて適切だった)
ここには、2つポイントがあります。1つは、当日は工場長ほか役職者が東京におり不在でした。不在時でも総務課主任が現場指揮者として適切に判断できたこと(これができなかった事例が東北では複数ありました)。もう1つは、この主任が直ちに工場に戻る判断をしたため、まだ避難渋滞が起きていなかったこと。数分の判断がその後の移動可能性を著しく変えます。

6、避難場所から工場に戻ることを一切許さなかった
当時雪も降る寒い中だったこともあり、一度日和山に避難した従業員らも衣類や家や車のカギを取りに工場に戻ろうとしたが、責任者は「一切まかりならん。山を下りるなと伝えろ」と命じました。家族の安否が心配なので抜けてもいいかという従業員にもこれを断じて認めませんでした。これに対し、従業員からは、「風邪ひけっていうのかよ」「生意気な口叩くな」という抗議まであったが、それでも山を下りることを例外なく認めなかった。これが一度避難したにも関わらず(あるいは安全な場所にいたにもかかわらず)自宅や職場に戻ることによって命を失うということを防いだ英断です。

*津波到来時間が遅いという日本海溝による津波が、かえってこの「そろそろ戻ろうか」「一度戻ろう」という判断につながってしまう皮肉もあります。津波がすぐに到来する南海トラフ地震ではかえって起きにくいリスクかもしれません。

令和元年6月

弁護士 永野 海

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