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安政東海地震で損壊した掛川城 訪問記

いまの掛川城は,平成6年に,当時初の木造復元天守として再築されました。

白木ハナヱさんという人が天守再建のために5億円を寄付したことで基本的な資金目途が立ち実現したものです(すごいです)。

 

さすがに地震大国静岡,あるいは地震大国遠江(とおとうみ),この掛川城の歴史は,地震の歴史でもあります。

 

 

掛川城に最初に天守を築いたのは,大河ドラマで有名な山内一豊。1590年のことです。家康が関東に移ったことでここに入りました。

 

 

当初の天守は,慶長地震(1605年)で倒壊し,1621年に再建されたとされています。

この慶長地震については,諸説あり,南海トラフ地震とする説もあれば,そうではないとする説もあります。

しかし,いずれにせよ千葉から鹿児島まで津波の記録が残っており,高いところでは10m規模になっています。

将来の備えのために,今後,解明が待たれる地震です。

 

 

せっかく慶長地震のあと1621年に再建されたわけですが,1854年(嘉永7年・安政元年)の安政東海地震で,天守を含む多くの建物がふたたび損壊,倒壊してしまいました。

 

そのときの地震による損壊の様子が詳細に,「遠江国掛川城地震之節損所之覚図」に記されています。江戸幕府の時代ですから,お城が壊れたら細かく幕府に報告し,修理の許可を得なければいけなかったんですね。

 

ちゃんと,「地震」という言葉も使われています。

 

 

この地震損壊図は,掛川場内の二ノ丸御殿(国・重文)のなかで見ることができます。なんとなればここでその写しを購入することもできます(しっかり買いました)。

 

 

この図の右下に説明があります。赤く書かれたところが,「此色潰」,つまり,この赤色で書いたところが潰れたところです,と書かれてあります。

 

 

さて,赤く書かれたところがどこかという目線で再度みてみると,建物系はどこもかしこも赤色です。

ほとんど地震で壊滅したことがわかります。

天守の最上部や石垣の一部も赤く書かれてありますね。

安政東海地震がどれほどの規模だったか(震度7です)この図からも読み取ることができます。

 

 

 

 

時間を知らせるための大太鼓を納めてあった太鼓櫓も,貴重な遺構ですが,安政東海地震のあとに作られたものです。

 

 

 

二ノ丸御殿では,もう1つ,貴重な絵図をみることができます。「御天守台石垣芝土手崩所絵図」です。

北側の石垣が見事に崩落してしまっています。

 

 

しかし,こちらは「嘉永4年」と書いています。

安政の東海地震は,嘉永7年(*)ですから,それより3年前の1851年にも石垣が崩れたということになります。

この崩壊の原因は明らかになっていませんが(大きな災害の記録はないようです),この20年前の1831年にも同じような場所が崩れているようですので,そのときに応急修理しかなされなかった可能性もあるようです。

 

*安政大地震や黒船来航などのため元号をこの年に安政に改元しています。

つまり安政年間に大地震が起こったのではなくて,嘉永年間に大地震が起こったから安政という元号に変えたんです。

 

掛川城は,ここで紹介したような当時の絵図や,同じ山内一豊が掛川城を模して造らせた高知城などを参考に復元された貴重な木造建築物です。

行ってみると想像以上に立派な城内ですし,掛川城からの景色はとても素晴らしいです。

 

家族で掛川城を訪れる際に,どうか二ノ丸御殿の中の2つの絵図をご覧になってみてください。

そして,掛川城の歴史は地震による倒壊と修復の歴史であること。

それは,ここが南海トラフ地震による影響を大きく受ける土地だからだということを意識し,日頃の防災意識を高める機会にしてもらえればと思います。

 

平成29年12月訪問

静岡市清水区 弁護士 永野海

 

 

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