東京都復興記念館(両国) 訪問記
横綱町公園、ご存知でしょうか?
名前の通り、両国駅ほど近くにあります。
きれいに整備された公園ですが、ここは実は1923年9月1日に発生した関東大震災の際、もっとも被害が大きかった場所の1つです。
ここに避難していた多数の市民が火災による犠牲になりました。
跡地が公園として整備され、そのなかに復興記念館があります。
さすがに開発めまぐるしい首都東京では、関東大震災の災害痕跡を辿ることは容易ではありません。
慰霊碑の類は山ほどありますが、慰霊碑だけをみて災害を自分ごととして感じることは難しいですよね。
そんななか、この復興記念館には、震災の関係資料や遺構が多数展示されており、極めて貴重な場になっています。
関東大震災を引き起こす関東地震は、東日本大震災と同じ海溝型地震です。
フィリピン海プレートが北米プレートに潜り込む相模トラフで起こります。
これが相模トラフ。
ここでフィリピン海プレートは不思議な動きをしてまして、伊豆半島の西側の駿河トラフではユーラシアプレートの下を北西側に潜り込んでいるのに、東側の相模トラフでは北東側に潜り込んでいるという。
分裂状態です。
それはともかく、さきほど復興記念館のパネルでは、震源地は神奈川県の陸上になってましたよね?
海溝型地震なのにどうしてでしょうか?
相模トラフは、日本海溝と違って、陸からものすごく近い相模湾にありますので、ここの断層が破壊された場合には、海域だけでなく陸域でも破壊が生じる場合がある、ということです。
陸の下の断層が破壊されると直下型地震のような形になりますし、海域での断層破壊は津波につながります。
海溝型地震と直下型地震がミックスされたような地震といえると思います。
陸から至近の場所にトラフがありますので津波は一瞬で到達します。
これは南海トラフの特に静岡近郊部分にも共通する特徴ですが、地震から30分40分してから最大津波高がくる東北地方太平洋沖地震とは全く異なることを知ってください。
沿岸部の学校などは、校庭に集まって点呼、などという昔ながらの防災をやっていれば必ずみな死んでしまいます。
地震発生時でとまったままの時計。
これはなんと火災で燃えた洋菓子。
火災の熱で溶けた硬貨。
溶けたガラス。
震災直後の状況。
死者行方不明者は10万人以上ですが、学ぶべきは死因です。
東京神奈川はもちろん焼失や火災から逃れようとしての溺死が大半です。
しかし、千葉などでは阪神淡路大震災と同様に建物倒壊死、静岡では津波死が主な死因です。
特に、次の関東地震でも、熱海や伊豆諸島の東側に津波が襲来することは静岡県民は知っておく必要があります。
もちろん神奈川東京にも津波はきます。
当時の様子。
地震直後の日比谷交差点。
(煙は合成のようです。直後なのでここまで煙はありませんでした)
直後の銀座です。
残念ながら他の場所と同様、この後、この銀座も延焼被害にあうことになります。
ここにも翌日には火の手が達しました。
阪神淡路大震災でもそうでしたが、一気に多数の火災が発生した場合、消防ですべてを消火することはできません。
そのため延焼被害が発生することになります。
とくにタイミングが悪かったのは、当時、台風が北陸地方にあったことです。
糸魚川の大火災と同様、強風が一気に延焼範囲を広げたのが関東大震災でした。
あまり知られていませんが液状化も広範囲に発生しました。
東京は、武蔵野台地より東側は地盤が弱いのです。
前述のように津波被害も発生しています。
静岡の津波は10mに迫ります。
当然土砂災害も多数発生しています。
延焼をとめたのは、崖、公園、木々などでした。
この経験から、延焼防止の目的も含めて緑地・公園整備が図られました。
横綱町公園の当時の被害の大きさを示しています。
避難していた人々は、四方からの火災や火災旋風により命を落としました。
実に避難者の95%、3万8000人もの人がここで犠牲になったのです。
関東大震災では、様々な虚偽、流言が溢れ治安が著しく悪化したことは有名です。
罪のない多くの人々が市民により殺されました。
当時の治安維持のための張り紙です。
救護の様子。
交番に貼られた行方不明者の捜索の張り紙。
復興記念館だけでなく、横綱町公園には、さまざまな震災や東京大空襲の犠牲者を悼む施設が設置されています。
東京に行かれた場合には、あるいは東京の方はなおさら、スカイツリーやキッザニアもよいですが、一度ぐらいは、横綱町公園を訪れ、関東大震災についていまいちど知り、学ぶ機会にしていただければと思います。
この日はお彼岸でした。
道行く人が自然と慰霊碑に手を合わせている姿が印象的でした。
平成30年3月訪問
静岡市清水区 弁護士 永野 海