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水門と防潮堤が村民を守った普代村の津波防災のいま

現在工事中の吉田町(静岡県)の防潮堤。

 

吉田町の田村町長(写真左から2人目)によれば、防潮堤と水門により東日本大震災の20mを超える津波でも民家も学校も一切浸水させなかった普代村(岩手県)を視察したことが、防潮堤計画の契機となった、とのこと。

では普代村に行かねば、と思いながら忙しさにかまけて少し時間がかかってしまいましたが、この度、盛岡でのシンポジウムに呼んでいただいたことを逃さず、念願の訪問かないました。

 

普代村の政策推進室主事の前川正樹さんです。

たった一人のわがままに、土曜日、しかも前川さんが企画された村挙げての大行事「フォトロゲイニング」と重なってしまっていたにもかかわらず、2時間もの間ご案内とご説明をいただきました。

感謝しかありません。

ちなみに前川さん、普代村のご出身ですが、東京でお住まいであったのに、普代村役場に勤務することになったために、なんとなんとなんとなんと、あの震災の1週間前に普代村に転居してきたばかりでした。

転居して1週間後に、東日本大震災が発生。ご自宅の目の前まで津波が襲いました(普代水門がなければ間違いなくご自宅は津波により全壊であったと思われます)。

震災時は災害対策本部のメンバーでもいらっしゃいました。

普代村は、岩手県の太平洋岸でも、かなり北に位置します。

盛岡からだと、岩泉町経由で、2時間強。

 

普代村は人口2700人程度、漁業(ワカメの養殖など)も商業もある村です。

普代村で津波リスクがある集落は主に2か所です。

地図北側の普代川沿いの商業エリアと、南側の漁港がある太田名部です。

明治三陸津波でも昭和三陸津波でも村の存亡にかかわる甚大な被害を受けました。

そこで1947年から40年間村長を務めた和村幸得氏(大学の大先輩と今知りました)が、2つの三陸津波を前提に、普代川沿いと太田名部の漁村にそれぞれ巨大水門と防潮堤を作ることにしました。

T.P15.5mもの巨大施設には村民からも猛反対があったそうですが、信念を貫き、最終的に昭和59年に両施設を完工させました。

上の写真は、その1つ、普代水門。

東日本大震災では25m近い津波が襲来し、15.5mの水門を越水しましたが、35億円を投じて、鉄筋量にも素材にも一切妥協せず作りこまれた水門自体は津波の衝撃にもびくともせず、津波の衝撃を大幅に減殺させ、水門至近にある小学校も中学校も民家も一切浸水させませんでした。死者は一人もいません(漁船の様子をみにいってしまった方一人が行方不明になっています)。

他方、これが南側の太田名部漁港の奥に設置された防潮堤。

こちらもT.P15.5mです。ただし、こちらは数千万円(当時)の工事費で、そのためかかなりコンクリートその他の老朽化が進んでいるようです。

一般論として、防潮堤建設には、将来のメンテナンスや再工事費用が自治体財政で可能かも十分に計算される必要があります(特に3.11の復興予算で申請期限に追い立てられるように作られた防潮堤は尚更です)。

普代村が3.11の遥か前からこの2つの津波防護施設を完工できたのは、村長の英断もさることながら、海に面した開口部の狭さ(普代水門の全長はわずか200m強です)が大きく影響しています。

それぞれの地形に即した自然災害との共生施策が大切です。

 

実は、同じT.P15.5mの普代水門は25m近い津波により越水したにもかかわらず、この写真奥の太田名部の防潮堤は越水しませんでした。

一部研究によると、この防潮堤の前にある二重の防波堤(港湾施設)が事前に津波を上手く減衰させたためと結論づけられています。

ハードでも津波対策として多重防護の構造をとり、上手に津波の力をかわしていくことが効果的であることがわかります。

 

二重の防波堤。実は、和村村長は、巨大防潮堤建設に、漁村民を納得させるために、同時にこの漁港施設の建設を提案したということで、住民同意を得るための戦術にも長けた方のようですね(しかもそれが住民の命を直接的に守りました)。

 

山が海にまでせり出した地形を上手に生かしています。

津波高を示す看板が、防潮堤の上部にあります(越水しませんでした)。

人や車の行き来をするための陸閘(りっこう)は、震災後、アルミ製の開閉しやすい軽い素材に改善されました。

また、今後、自動的に開閉できるシステムにするそうです。

 

陸閘をくぐると、そこは漁業者家族の住む集落です。

 

防潮堤が守り集落は無事でした。

このため住家の復興問題は生じず、漁港の復興に専念することが可能になりました。

防潮堤の左が集落(浸水なし)、右は漁港エリアでこちらは壊滅しました。

防潮堤の奥には、緊急の一次避難が可能な神社に続く階段があります(ただし村としての公式の避難場所は写真左側の集落の高台です)。

そして、この防潮堤、奥側が少し写真右側に曲がっていますね。これは津波の方向を集落を避け、南側の谷筋に誘導するためです。

南側の谷筋には、民家はほとんどなく(建築規制はかけていませんが村民は自主的にこちら側には住家建築はしないとのこと)、漁具などを保管する建物が並んでいました。

もちろん3.11ではそちらの谷筋は漁港同様津波で壊滅しました。問題はその後の復興過程です。

漁港関連自体はグループ補助金も活用し復旧していったそうですが、こうした住家でなく漁業者の別棟については(農業などと異なり)国の支援制度はほぼありません。そのために罹災証明の発行の対象にもならず、被災証明は発行したもののほとんど使う用途もなく、復旧復興にずいぶん苦労されたようです。

われわれががんばらないといけない範疇の話ですね。

 

普代水門に戻ります。

水門ではどうしても地震後の水門開閉が問題になります。実際、3.11では、停電により遠隔操作により水門を締めることができませんでした。

しかもそれまでのマニュアルでは、消防団によりこの水門を閉鎖後に閉じ込められる人がでないよう、この水門横の道路につながる普代川沿いと太田名部側の2か所で通行制限の人置きをし、十分な安全確認をした上で水門を締める遠隔装置ボタンを押す、さらに開閉に問題が生じれば現地にいって手動で水門を締める、という流れになっていましたが、これでは非常に時間がかかり、津波到達前に水門を閉められない可能性があるだけでなく、消防団の犠牲を招きます。

そこで、現在では、津波警報が発令されれば即座に遠隔装置ボタンを押し、消防団員も津波到達予想時間の15分前には問答無用で全員退避する運用に変えたそうです。

静岡県消防学校で授業を担当する立場として、こうした考え方をぜひ還元したいと思いました。

また、遠隔操作装置としても、停電などに備え、光回線と衛星の2つの手段で対応できるよう改善されました。すばらしいです。

 

ただ、一連の事実に鑑みると、この手の水門や防潮堤は、仮に水門の閉鎖が不十分であっても、この存在だけで津波を大幅に減衰させる力があるようには感じました。

 

普代水門からの太平洋。

この巨大水門を越水する高さでこの普代川河口一面を津波が襲来したことを想像すると、身震いがします。

この中で一人の犠牲者もでなかったことが奇跡に思えます。

 

水門の上から上流部左岸側を撮影。

普代小学校が右奥に少しみえています。小学校は浸水を免れました。

普代村の最初の津波対策は、この普代川左岸の護岸工事でした。

普代村の地形的制約として、人が住めるエリアは決して広くなかったわけですが、人が住める限られた場所に誕生した町の中心部を津波や洪水から守るための対策でした。

これがいまでは、普代水門を越水した津波に対する二重の防護施設として機能することになります。

 

この護岸堤防の陸閘もアルミ製の軽いものに置き換えられました。

こちらは普代川の左岸。奥に普代小学校(中学校との一貫校化を目指して移転計画中です)。

東日本大震災では、普代水門を越水し、このあたりまで津波が押し寄せましたが、河岸段丘の上側に立地していた小学校の敷地は浸水を免れました。

 

現在の普代小学校には、写真左手前の新しい避難路が整備されています。

3.11の前は、小学校の裏山に簡易の避難路を整備して、子どもたちは学校の裏山に避難する計画でしたが、津波浸水後の孤立化対策もあり、変更されました。

 

これは小学校の校庭を下から撮影したもの。

3.11後、校庭の高さも5mほど嵩上げしました。

東日本大震災で被害がなかったことで安心していない村の防災意識がみてとれます。

 

嵩上げされた小学校のグラウンド。

 

さて新しくなった小学校の避難路をみてみましょう。

 

奥に渡り廊下がありますね。小学校2階からの避難を1秒でも早めるために新たに設置されました。

 

避難路を進みます。津波避難訓練は、春先に学校で1回、秋には自主防災会としてもあります。

 

小学校から避難を続け、途中で中学校(写真左)と合流します。

避難訓練では、歩かず、全員が走るそうです。

避難路の続き。

 

まだ海抜13mです。避難路は続きます。

 

途中にある防災倉庫。

3.11前では備蓄もなかったそうですが、いまでは3日分の水や、食料、電気類など防災備品が比較的安全な中学校裏の高い場所に設置されました。

 

 

ここからさらに山を登ります。

 

ようやく最後の山に新たに設置された避難路に到着。

緊急時にはアクリル板?を叩き外して鍵を開けます(普段から使えるようにすべきだと個人的にはこの手の施設ではいつも思いますが、国がそのあたりの管理・運用にうるさいようです)。

さて、避難の完遂に想定された時間は10分(いまや野球部の面影のない私でも走れば5分あればこれるかと思います)。

もっとも陸地に近い震源域の地震の場合の津波到達時間の想定が10分とのことです(科学的、あるいは確率的には岩手県沿岸部にごく近い場所を震源域とする地震の津波は日本海溝の地震ほど高くはない可能性が高いと思います。ただし海底地すべりなどは別です)。

 

さらに上まで二次避難すると津波から安全なだけでなく、新たにできた高速道路に合流できるため、その後子どもたちや住民が安全な場所に移動できるシステムになっています(素晴らしいです)。

釜石(鵜住居)でも、避難後、結局電気のないなか道路を一列に並んで子どもたちが町の中心部に移動しましたね。

暗いトンネルを、左手をトンネルを壁にあてながら一列につながって横断し、たどりついた避難所でカモメの卵(銘菓)1つを2人ずつでわけたという子どもたちの話が忘れられません。

 

こちらは普代水門を越水する津波の様子を監視カメラがとらえたものです。

この時点で20m近いでしょう。

 

これが水門との位置関係です。

 

3.11後、見直されたのは水門や防潮堤の陸閘だけではありません。

こちらは太田名部地区の小河川の水門です。

地震後開閉せずとも、川の流れの方向の水は流れることができ、他方で逆からの津波の侵入には扉が動かない構造です。

最新技術ですね。

普代小学校でも水門の効果を軽信せず、新たな本気避難の対策と訓練がされていますが、こちらの太田名部集落も、防潮堤があっても、避難意識は非常に高いようです。

この道の奥が防潮堤のある海側。この一本道をみなが訓練で避難で上ってきます。

 

そしてこの海抜50m以上の場所まで避難してきます。ハードの防災構造に安心しないことが命を守ります。

ただし、ここは砂防堰堤の目の前・・・。地震後は土砂崩れの危険が大幅に高まりますので、可能であれば少なくとも集合場所はこの堰堤の前は避けなければならないようにも感じました。

 

この堰堤をさらに超えれば普代村の中心部にでることもでます。

日本の多くの場所がそうですが、海のリスクを避ければ、今度は山の土砂災害のリスクがあると、なんとも難しい変動帯の国にわれわれは住んでいるのです。

 

ともあれ、普代村の津波防災を詳しくご教授いただき、ハード面でも3.11後に数多くの改善がなされたうえ、ソフト面での避難行動の徹底と逃げやすい対策がなされていることを知りました。

今後も普代村の防災対策に注目していきたいと強く思いました。

 

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